昔から言ってきたことだが、私には分からないものほど何度 も見に行く癖がある。分からないのは私と作品のどちらかに 問題があるからだろうけれど、どちらに非があるか、それが 分からないからだ。円山応挙、富岡鉄斎、村山知義、若林奮、 菅木志雄、岡崎乾二郎、海老塚耕一、利部志穂などなど…。 むろん、分からなさの理由はそれぞれ違う。 海老塚耕一の木材を空間に敷き並べたような作品は、イン スタレーションの一類に数えられている。けれど私は、イン スタレーション一般に冷淡だ。西洋美術の文脈から見ると、 インスタレーションの過半は絵画という形式が割れて生じた デリヴァティヴ(派生)形態だからである。絵画の形式批判 (キュビスム)から派生したもの(たとえば初期構成主義) ならば緊張を催すけれど、今日のインスタレーションにその ような前衛期の緊張はなく、根拠も由来も問わないただの空 間内寄せ集めだから、芸術現象とすら思えない。多少気取って みても、オノ・ヨーコにおけるごとき詩的発想や社会的関心に 先導され、概念主義に保護されたナンデモアリ・アートである。 などと見極めがついてしまうと、見に行く気にもならない。 なのに、私の海老塚見分行はなかなか止まない。西洋美術の 文脈とは別の根拠をさぐっているデリヴァティヴのように思え るからだろうか。たとえば、建築とか菅木志雄的モノ派に淵源 を持つ、イメージに先行されない(非表象的)物質・空間関係 をさぐっている作業なのかと。そういえば、海老塚は大学で建 築を学んでいたはずだ。 けれど、非西洋美術の文脈から外して観察すべきだとしても、 芸術の文脈から外していいことにはならない。本人だって非芸 術を標榜しているわけではないし、「アート」で結構などと軽 薄に構えてもいない。毎年、魅力的な銅版画を発表するかたわ ら、労多き木材のインスタレーションにも挑み続けている。明 らかに、こっちの方が大芸術の場なのだ。 その大きな場のインスタレーションと小さな場の銅版画との 違いが、私にはもの言いたげに見えて仕方ない。海老塚の銅版 画も、イメージに先行されない非表象的空間と物質の関係を緻 密に追いつづけている点ではインスタレーションと同じなのだ が、決定的に違うのは、前者では銅版画技法をさまざまに駆使 しながら、線や点の反復、飛ばし、面への潜伏等々、絵画・版 画で可能な造形言語を、イメージに回収されない分だけ自在に、 かつ制約自覚的に(limit-consciously)駆使していること である。この小さな版面上の言葉遊びに目と耳を傾けるのを、 私はいつも楽しみにしている。 大芸術の場では、このような造形言語の戯れはなかなか発現 しにくいのだろう。あの李禹煥も、インスタレーションの大作 では理念が先行し、銅版画での豊かな造形性が生かされなかった。 空間と素材に制約がないと、 言葉はかえって羽ばたきにくい ものらしい。その口下手な海老塚のインスタレーションを、そ の昔からの生真面目さに引かれてか、やっぱり見に行かないと 私は落ち着かない。 (2020.12.9 )