然を見渡し、全体とあらゆる部分をじっくり見詰めたまえ。
巨大な機械ような自然はさらに無数の小さな部品に分かれ、それがさらに細分されて、
人間の感覚では追跡も説明もできないまでになっている。このもっとも微細な部分に
至るまで、私は見詰めている。
自然の物事の精巧さには、設計者はいるか?
モノの本来の姿は何か?この目的論的証明の哲学問題に関して深く考えている。
私にとって、自然の精巧さは、ただモノの形の特徴だけでもない。モノの性質あるいは
個性、ひいては実在感と存在の意味といったようなモノもないがしろにされてはおらず、
物体の奥にある精神世界に、接近しようとしている。医師のお爺さんと占術師のお婆さ
んの下で成長してた私は、痛みの根源にしろ、悩みの糸口にしろ、極めて細部の状態を
きちんと検査したり記録したりすると考えている。更に、占術学習の私は、物事のシン
ボルの意味などを追い求め、それらシンボルが自己認識の道具として、自分の内なる精
神世界の隅々を凝視すべきと考えるようになった。
木の枝、蜘蛛の糸、ワカメ、ベリーなど、そもそも細やかなモノをよく観察している。
それらは量が倍増すると、力が増えたり、毒が強まったりしてくる。私はそのような性
質が目で見えないが、心で感じられる。自然モノの性質や個性は、人間の感情に結びつ
き、内なる「精巧さ」だ。多様な生物が小さいサイズの銅版で生まれ、自分の精神世界
に連鎖し、縦横無尽に空間に展開する。
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